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ディアナ号来航7 条約締結とロシアへの帰国
安政の大地震や暴風雨などでディアナ号は沈没。プチャーチンはヘダ号を建造することになったが、来日の目的である日露交渉もヘダ号建造と並行して再開されていた。

被災9日後には第2回の正式会談が下田で開かれ、樺太(からふと)の所属問題や開港場、領事館などの問題で交渉し、その翌日の第3回の会談では、領事裁判権や最恵国待遇なども取り上げられている。

ディアナ号の沈没後の安政元年12月14日、15日には、下田市の長楽寺で第4回、第5回の会談が行われて、日露国境、領事駐在、日露和親条約全体の検討などを行った。

そして、安政元年12月21日(ロシア暦では1855年2月7日)、プチャーチンは幕府の筒井政憲、川路聖謨との間に日露和親条約を締結した。翌年には批准書も交わされた。

プチャーチンが、日本との条約締結のために航海を初めたのが1853年1月。締結までには2年余の歳月が費やされた。

条約では、2条で日露国境を択捉(えとろふ)島とウルップ島の間とし、択捉全島を日本領に、ウルップ全島とそれより北をロシア領とした。樺太については明確な境界を定めなかった。

開港については箱館(函館)、下田、長崎の三港としたほか、領事裁判権は樺太の問題などもあって、この時は日露両国に認めるものとなった。

条約締結を果たしたプチャーチンだったが、ディアナ号の沈没によって、帰国の方法には悩んだ。英仏との緊張もあったが、建造したヘダ号だけでは、ディアナ号の乗組員全員を帰国させることはできなかったからだ。

実際、プチャーチンは帰国に向けてさまざま画策をする。下田に入港したフランス船を乗っ取ろうともした。

帰国は船をチャーターして何陣かに分けることになり、戸田村教育委員会編「ヘダ号の建造」によると、第1陣は安政2年2月25日にアメリカ船のカロライン・イ・フート号で、159人がカムチャッカのペトロパウロフスクに帰国。

第2陣は、同年3月22日で、建造したヘダ号で、プチャーチンははじめとする48人が津軽海峡を経て、ニコライエフに到着した。ちなみにヘダ号は批准書交換の際、幕府に返還されている。

第3陣は、ドイツ船のグレダ号で6月1日に帰国していった。258人が乗っていたというが、イギリス船に拿捕(だほ)され、最終的な帰国は1856となったという。(つづく)


[2005-01-15-13:00]
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