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ディアナ号来航2 国際情勢が緊迫する中で 1853年7月19日(以下日本暦)、長崎奉行にロシア首相からの国書を渡したプチャーチンは、一度、長崎を離れ上海へと向かった。ロシアとトルコとの開戦を巡り、その情報収集が主な目的だったとされている。
12月5日に再び長崎に投錨したプチャーチンは、幕府の対ロシア外交の担当者である勘定奉行勝手掛の川路聖謨と14日から日露条約草案に関して交渉した。
会談は翌54年1月2日まで繰り広げられたが、この時の交渉では、開港問題や国境線を巡って完全なる妥結には達していない。
しかし、プチャーチンは、日露交渉の一応の成果があがったとして、長崎を離れて船体修理と食料補充のためフィリピン・マニラへと向かっている。プチャーチンは、クリミア戦争の拡大など国際情勢を把握する必要に迫られていた。
マニラで国際情勢の緊迫の情報を得たプチャーチンは、長崎に立ち寄り、長崎奉行に覚書を提出させて条約の調印を江戸で行いたいと幕府に申し入れた。
沿海州のインペラートル湾に向かったのは3月29日(ロシア暦4月14日)。プチャーチンはそこでディアナ号の到着を待つことにした。パルラダ号が率いる艦隊は、英仏の艦隊に比べて明らかに劣勢だった。
一方のディアナ号はというと、1854年3月18日(以下ロシア暦)にハワイ・ホノルルに到着していた。その直前に英仏がロシアに宣戦布告をしたこともあり、沿海州へは、常に戦時体勢での航海を強いられた。
パルラダ号とディアナ号がインベラートルで合流したのは7月11日。ようやく合流した形だったが、ロシアが他の西欧諸国と対立を激化させる情勢下で、プチャーチンはディアナ号独艦で日露条約交渉に臨むのを余儀なくされた。他の艦はカムチャッカ及び沿海州の防衛に当てられた。
日本との条約締結のため、プチャーチンが、再びインペラートルを出港したのは10月3日。その6日後には函館へと入った。日本暦では嘉永7年8月30日のことである。
ところが函館での交渉を拒否されたため、プチャーチンはディアナ号の舵を南紀に向けた。9月18日には大阪天保山などでディアナ号の存在感を見せつけている。
大阪接近の目的は、大阪湾の調査と英仏艦隊の探索を逃れるためだったが、天皇の居城近くに大艦を乗り入れることで、幕府側をけん制する意味も込められていた。(つづく)
[2005-01-11-18:50] |
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