富士ニューストップ
[[ 2008/07/25現在、記事数2302本 画像点数2002点 6,900PV/日]
Copyright(C)2008 Fuji News All Rights Reserved.
検索
サイト内の地図へ文字サイズなどのご利用案内のページへ
市政・市議会社会スポーツ経済生活・イベント文化・芸術・教育特集・企画データトップ
ディアナ号来航1 プチャーチンの旅立ち
今から150年前、日本とロシアを結ぶ1つの出来事があった。富士市の宮島村沖でロシアのフレガード艦ディアナ号が遭難、プチャーチン提督率いるディアナ号の乗組員を近くの住民たちが救助した。

プチャーチンたちは戸田村でディア号に代わる船をつくりロシアへの帰国を果たしたが、幕末の混乱期の中で日露友好の礎(いしずえ)がそこに築かれた。

プチャーチン提督やディアナ号のたどった航路、富士市とのかかわりなどを紐解く。

執筆にあたっては、ディアナ号についての調査結果を詳細に記述している「ロシア軍艦ディアナ号の遭難―富士市とのかかわりー」(富士市教育委員会発刊)を参考にした。



ロシア皇帝ニコライ1世の命を受け、日本との外交的通商関係の確立のため、艦船がロシアを旅立ったのは1852年10月(以下ロシア暦)。

極東進出を果たしていたロシアは、極東政策で、船舶の補給地として日本の協力が必要だった。さらに不確定だった国境を確認する必要もあった。

使節派遣の直接的な要因は、アメリカがペリーを日本に派遣することを決めたことがある。列強各国が植民地政策を強める中で、鎖国日本との交渉が必要に迫られていた。

当初、日露交渉のために使用された艦船は、ディアナ号ではなくフレガード艦のパルラダ号だった。この船は1832年の造船で日本に向かうにはやや古かった。

しかし、パルラダ号は1852年10月にクロンシュタット港を出港し、イギリスのポーツマス港に入港。ここで全権大使に任命されたプチャーチンを乗せ日本へと旅立った。

ポーツマス港を1853年1月6日に出港したプチャーチンは、アフリカ沖のマデラン島を経由して3月10日に喜望峰に到着、インド洋を約2ヶ月かけて横断してシンガポールに入港した。

インド洋の強風は、艦齢20年が経過しているパルラダ号とって予想以上に厳しいもので、プチャーチンはシンガポールで、パルラダ号に代わる艦船の派遣を要請すべく、ブタコーワ大尉を下船させている。

プチャーチンは、その後香港に立ち寄り、7月25日に小笠原父島二見港で、パルラダ号を含めた4隻による艦隊を編成して長崎へ向かった。長崎に投錨したのは8月10日、日本暦で嘉永6月18日のことである。

プチャーチンは長崎において、国境協定と通商条約締結を幕府に求めるロシア首相の国書を長崎奉行に提出した。幕府はこれに対する回答を引きのばしする策に出たため、プチャーチンは10月23日に一度長崎を離れて上海に向かった。

プチャーチンが長崎で幕府の対応にしびれを切らす間、ロシアではフィンランド湾のバルチック艦隊に所属していたディアナ号を極東へ派遣することが決まっていた。

ディアナ号は10月6日にクロンシュタット港を出港したが、航路はパルラダ号とは異なり、大西洋から南アメリカ南端ゴール岬を経て太平洋に入り、ホノルルを目指すコースをとった。

ディアナ号がこの航路をとった背景には、1853年9月にロシアとトルコの間でクリミア戦争が勃発していたことがあり、ロシアの勢力拡大を懸念してトルコを支援していた英仏が、ロシア艦隊の動きを注目していたためだった。

ホノルルへ向かう途中には英仏がロシアに対しての宣戦布告をしており、ディアナ号はクロンシュタットからタタール海峡に至る航海で、実に200日間を費やしている。こうした世界情勢が、やがては戸田村とディアナ号を結びつけるのであった。(つづく)



[2005-01-11-18:47]
NEWS PICK UP
富士市立高校の開設準備委員会 3年後の再編目指す
富士地域中小企業景況レポート 4月〜6月期
富士市中学校総合体育大会 中体連特集2008
市政・市議会社会スポーツ経済生活・イベント文化・芸術・教育特集・企画データトップ

Fuji-news.netに掲載の記事・写真などの無断転載を禁じます。 >>著作権について >>個人情報について

富士ニューストップへ 富士ニュース社 Fuji-News.net >>会社ご案内
本社 〒417-0001静岡県富士市今泉1-15-14
TEL.(0545)52-0551(代) FAX.(0545)51-0507
Copyright(C)2003-2008 Fuji News All Rights Reserved.